1913年4月、ルイジアナ州の町オペルーサスに、一人の男の子が迎えられた。八か月前に湖で行方不明になった、四歳のボビー・ダンバーだという。町は花で飾った消防車を用意し、少年の帰還を祝った。
ところが、両親が少年と再会したときの新聞記事を読むと、話が合わない。母親はすぐに息子だと分かって抱きしめた、と伝える記事がある一方で、自分の子かどうか分からずにためらっていた、と伝える記事もある。
そのうえ、ほどなく別の女性が現れ、少年は自分の息子だと訴えた。町が「ボビーは帰ってきた」と祝ったとき、少年の身元は本当に確かめられていたのだろうか。
湖で消えた少年
ボビーが姿を消したのは、1912年8月23日のことだった。不動産と保険の仕事をしていた父パーシー・ダンバーの一家は、オペルーサスから列車で行けるスウェイジー湖を訪れていた。周囲には糸杉の森と湿地が広がり、湖にはワニもいた。
昼食のためにキャビンへ戻るころ、四歳の長男ボビーがいないことに気づいた。捜索には大勢の人が加わり、ワニに襲われた可能性を考えて、その腹の中まで調べた。遺体が浮かび上がらないかと湖にダイナマイトも投じたが、少年は見つからなかった。
小さな裸足の足跡が、鉄道橋の方へ続いていたという記録も残っている。しかし、その先で何が起きたのかは分からなかった。
当局が溺れた可能性や森で迷った可能性を考えるなか、パーシーは誘拐だと信じて捜索を続けた。探偵社に息子の写真入りの葉書を刷らせ、テキサス東部からフロリダまで、各地の役人に送った。葉書には丸く大きな青い目や、左足の親指にある、赤ん坊のころのやけどの痕などが記されていた。懸賞金は総額6,000ドルに上った。

食い違う再会
八か月後の1913年4月、ミシシッピ州で男の子を連れた男が逮捕された。男の名はウィリアム・カントウェル・ウォルターズ。荷馬車で南部を回り、ピアノやオルガンを修理して暮らす、ノースカロライナ出身の調律師だった。
知らせを受けたパーシーと妻レッシーは、少年に会うためミシシッピへ向かった。この対面を伝える新聞記事が、肝心の場面で食い違っている。
ある記事によれば、目を覚ました少年は母親に気づいて腕を伸ばし、レッシーはわが子を抱きしめて気を失った。ところが別の記事では、彼女は少年を見ても、自分の息子だとは確信できなかったとされる。夫妻が、目が小さくて息子に似ていないと記者に話したという報道もある。
翌日、レッシーは少年を風呂に入れ、ほくろや傷痕を確かめて、わが子だと判断したと伝えられている。最初はためらっていたという報道に従うなら、彼女の判断を変えたのは、顔つきではなく体の特徴だったことになる。
こうして少年はダンバー家に引き取られ、4月25日、オペルーサスで帰還を祝う人々に迎えられた。しかしウォルターズは、少年の身元について別の説明をしていた。牢の中からパーシーに宛てた手紙で、その子はジュリア・アンダーソンという女性の息子、ブルースだと主張したのである。
もう一人の母
ジュリアはノースカロライナ州の農場で働き、ウォルターズの両親の世話をしていた。彼女によれば、1912年2月、ウォルターズは姉妹の家を数日訪ねると言って、三歳のブルースを連れて出かけた。ところが、十五か月たっても戻ってこなかったという。
この話が正しければ、ウォルターズはボビーが湖で消える半年も前から、別の少年を連れていたことになる。
ニューオーリンズの新聞社が旅費を負担し、ジュリアは1913年5月1日にオペルーサスへ着いた。当時の報道によると、彼女は同じ年頃の男の子を五人、一人ずつ見せられた。問題の少年が入ってきたとき、二人とも泣いていたという。ジュリアは、その子が見つかった少年なのかと弁護士に尋ねたが、答えてもらえなかった。結局、息子だとは言い切れなかった。
翌日、少年の服を脱がせて体を見た彼女は、自分の息子だという確信を強めた。だが、そのころには、ジュリアが少年を見分けられなかったというニュースが全国に広まっていた。ダンバー家の地元紙は、彼女が少年の靴を調べたあと、自分の子ではないと言ったとまで報じている。

ニューオーリンズの新聞も「ジュリアは忘れた」という見出しを掲げ、彼女の暮らしや境遇をあげつらって、母親としての愛情まで疑った。弁護士を雇う金もなく、味方もほとんどいないまま、ジュリアはノースカロライナへ帰った。
報道を比べると、レッシーもジュリアも、最初は迷い、翌日に体を見て確信を深めている。それなのに、レッシーの迷いは少年を引き取る妨げにならず、ジュリアの迷いは、母親ではない証拠のように扱われた。
この違いを、当時から疑っていた人もいた。後年見つかった弁護側の資料には、「あるキリスト教徒の女性」と名乗る人物の手紙が残っている。手紙は、なぜジュリアのためらいだけが厳しく責められるのか、なぜダンバー夫妻は顔だけで息子を見分けられなかったのか、と問いかけていた。
法廷でも決着しなかったこと
1914年4月、オペルーサスでウォルターズの誘拐罪をめぐる裁判が開かれた。審理は約二週間に及び、少年を連れていた男の足取りが争われた。
弁護側は、ウォルターズが1912年2月にノースカロライナを出発し、5月にはジョージア州、7月以降はミシシッピ州にブルースと一緒にいたと主張した。ミシシッピ州ポプラービルからは、二十人以上の住民が証言に立った。彼らは、ウォルターズと少年を町で見知っていた人々だった。
一方、訴追する側からは、ウォルターズをルイジアナ州内で見たという証言が出ていた。失踪翌日の8月24日に現場付近で見かけたという証言もあり、男がいつ、どこにいたかという点からして、双方の言い分は一致しなかった。
陪審は有罪と判断し、ウォルターズは終身刑を言い渡された。しかし、弁護側が上訴すると、この判決は維持されなかった。ルイジアナ州最高裁はいったん起訴の根拠となる州法を違憲と判断し、その後の再審理では合憲としたものの、陪審に対する法律の説明に誤りがあったとして、有罪判決を取り消して審理のやり直しを命じた。
検察は費用を理由に再び裁判を開くことを断念し、ウォルターズは釈放された。無罪判決が出たわけではないが、有罪判決も残らなかった。少年の身元が改めて法廷で争われることはなく、彼はダンバー家で暮らし続けた。
約二年にわたる拘束の後、ウォルターズは荷馬車で各地を回る生活に戻った。親族の回想では、その後も弟の家を訪ねるたびに、この事件で自分は無実だったと語っていたという。
ボビーとして生きた男
少年はボビー・ダンバーの名で育ち、やがて電気設備会社のセールスマンになった。結婚して四人の子をもうけ、子どもたちには愛情深い父親として記憶されている。
本人が幼いころの事件をどう受け止めていたかは、わずかな発言からうかがうしかない。1932年、リンドバーグ家の誘拐事件をきっかけに取材を受けた彼は、自分がワニに食べられたと今も信じる人がいるが、そうではない、と話している。そのうえで、ウォルターズの荷馬車にはもう一人の少年がおり、転落して死に、埋められたという記憶を語った。
裁判では、ウォルターズがボビーとブルースの二人を連れていたのではないか、という説が検察側から出ていた。大人になった彼の話は、それによく似ている。本当に覚えていた出来事なのか、それとも繰り返し聞いた話が自分の記憶になったのか、確かめることはできない。
ジュリアの家族に会いに行ったことをうかがわせる証言もある。ジュリアの息子ホリスは、1944年ごろ、働いていたポプラービルの製氷所に、ボビー・ダンバーと名乗る男性が訪ねてきたと回想している。また、ボビーの末息子は、1963年の家族旅行の帰りに父が同じ町へ立ち寄ったことを覚えていた。ただ、訪問したからといって、出生について何か確かなことを知っていたとは限らない。
1954年、長男が本当にボビー・ダンバーなのかと尋ねたとき、父は、自分が誰かも、お前が誰かも分かっている、それ以外は関係ない、と答えたという。
彼は1966年3月に亡くなり、オペルーサスに埋葬された。その名をめぐる疑問は、次の世代に残された。
九十二年後の鑑定
1999年、孫娘のマーガレット・ダンバー・カットライトは、父から曾祖母のスクラップブックを渡された。事件の記事が四百本近く貼られていた。マーガレットは、それまで祖父の失踪を、いなくなった子が無事に帰ってきた家族の物語として聞いていた。
だが、古い新聞を集め、読み比べていくと、話はそれほど単純ではなくなった。ウォルターズの弁護士の孫娘が保管していた弁護記録も調べ、ジュリアの子孫にも会いに行った。ダンバー家にとっては息子を取り戻した出来事が、アンダーソン家では息子を奪われた出来事として語り継がれていた。
あの匿名の手紙も、マーガレットに家族の物語を疑わせた。ジュリアが少年を見分けられなかったことばかり気にしていたが、自分の曾祖母も同じように迷っていたのではないか。調査を始めたときには信じていた祖父の身元を、確かめる必要が出てきた。
2004年、父ロバート・ジュニアがDNAの提供に同意した。比較相手は、行方不明になったボビーの弟アロンゾの息子、デイヴィッドだった。祖父が本当にボビーなら、二人はいとこ同士のはずだった。
結果は封をしたまま保管し、ロバートのきょうだい全員が同意してから開く予定だった。ところが、マーガレットが検査所へ電話した際、助手が結果を伝えてしまった。彼女はその日、十時間車を走らせ、心不全で入院していた父のもとへ向かった。
鑑定結果は、想定されていた血縁関係を支持しなかった。2004年のAP報道は、これを、ボビーとして育った少年がダンバー家の実子ではなかったことを示す結果として伝えた。
ただし、検査で比較したのはダンバー家の二つの家系であり、ジュリアの子孫との照合ではない。この結果だけで、少年がブルースだったとまで証明されたわけではなかった。
それでも、家族への影響は大きかった。検査を知らされていなかったロバートのきょうだいたちは、突然の結果に怒り、調査を進めたマーガレットを責めた。ロバート自身は、名前を変えるつもりはなく、父は父、母は母だと話している。
一方、アンダーソン家は、ロバート夫妻が結果を伝えに来た日を、ボビーが息子の姿で帰ってきた日として受け止めた。ジュリアはその知らせを聞くことなく、1940年に亡くなっていた。ミシシッピで再婚して七人の子を育てた後も、離れ離れになった息子の話をしていたという。子どもたちの記憶では、彼女はその子をブルースではなく、ボビーと呼んでいた。

湖に残った問い
ダンバー家に迎えられた少年が別人だったとすれば、湖で消えたボビーはどこへ行ったのだろうか。
マーガレットは、鉄道橋から落ちてワニに襲われたのではないかと考えている。湖で亡くなった可能性は残るものの、足跡の記録だけで、その先の出来事まで分かるわけではない。死因も場所も確かめられていない。
ウォルターズが二人の少年を連れていたという説にも、決め手はない。大人になった「ボビー」の記憶は気にかかるが、もう一人の子の存在や死を、DNA鑑定が裏付けたわけではない。引き取られた少年の身元を問い直すことと、湖で消えた子の行方を突き止めることは、別々に調べなければならない問題だった。
もう一つ残るのは、夫妻が少年を引き取ったときの判断である。マーガレットは、後年の離婚関係の書類などを読み、パーシーが別人だと気づきながら、妻の心を守るために少年を息子として迎えたのではないか、と疑うようになった。
ただ、それはマーガレットの推測にとどまる。夫婦関係の記録から、再会した日の胸の内までは分からない。見間違えたのか、息子であってほしいと願うあまり信じ込んだのか、それとも違うと気づいていたのか。食い違う記事の向こうにいる夫妻に、もう尋ねることはできない。
ボビーの名で生きた男には、家族と過ごした年月があった。その子どもたちにとって、父親の出生がどうであれ、育ててもらった記憶は変わらない。
しかし、1913年の帰還によって終わったはずの捜索は、本当は終わっていなかった。四歳のボビー・ダンバーが湖で姿を消してから、九十二年後の鑑定を経ても、彼がどこへ行ったのかは分からないままである。
資料と確かさについて
本文では、当時の報道、後年の家族の証言、裁判の記録を区別している。新聞に発言や行動が記されていても、そのとおりに起きたとは限らない。とくに少年との対面場面は報道が食い違っており、一つの場面として再現することは避けた。
主な参照先は以下のとおり。同じ取材や記録をもとにした記事・番組・書籍は、別々に掲載されていても独立した裏付けとは数えていない。
- - **家族への取材と調査の経緯**:This American Life 第352回「The Ghost of Bobby Dunbar」(2008年初放送)。番組の文字起こしで、新聞記事の食い違い、匿名の手紙、両家の証言、鑑定に至る経緯を確認できる。番組が紹介する古い記事や私文書は、原資料を直接確認したものとは区別する必要がある。
- - **DNA鑑定の報道**:Allen G. Breed / AP、2004年5月4日。Seattle Post-Intelligencer 掲載記事。本文はこの報道と番組の説明に基づく。検査報告書そのものは未確認で、検査方式や数値から独自に判定したものではない。
- - **捜索と帰還当時の様子**:Allen G. Breed / AP、2004年2月1日掲載。SouthCoastToday 掲載記事。
- - **裁判の経過**:ルイジアナ州最高裁 *State v. Walters*, 135 La. 1070 (1914)(判決の掲載先)。引き渡し手続きについては、ミシシッピ州最高裁 *Ex parte Walters*, 106 Miss. 439 (1913)。
- - **地元史の補足**:Carola Lillie Hartley / Daily World、2018年7月19日・8月17日。人物の経歴や没年など。
- - **掲載した新聞紙面**:The St. Landry Clarion、1913年4月22日号外・5月3日号(米議会図書館所蔵)。当時どのように報じられたかを示す資料として掲載した。
関連書籍には、Tal McThenia と Margaret Dunbar Cutright の *A Case for Solomon: Bobby Dunbar and the Kidnapping That Haunted a Nation*(Free Press、初刊2012年)がある。出版社の紹介ページで実在と著者を確認できる(リンク先は2013年刊のペーパーバック版)。ただし、本稿では書籍本文の該当箇所を直接確認していないため、本文の根拠資料には含めていない。Wikipedia経由の書籍参照も、読んだ本からの引用としては扱っていない。
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